2020年、新年のご挨拶。
2020年、新年のご挨拶。
明けましておめでとうございます。
2020年は区切りのいい数の年であったり、オリンピックイヤーであったり、10連続偶数の平方の和(2020 = 4の2乗 + 6の2乗 + 8の2乗 + 10の2乗 + 12の2乗 + 14の2乗 + 16の2乗 + 18の2乗 + 20の2乗 + 22の2乗)であったりということもあり、特別な年を迎える感があります。
新しい1年を迎え、私個人としては「未知との遭遇」を意識した1年にしたいと思っています。
映画『未知との遭遇』は好きですが、特に関係ありません。語呂がいいので「未知との遭遇」という言葉を使っていますが、より「偶然性」を大切にしていきたいという意図です。
ネット検索やインターネットでニュースの閲覧時に表示される広告は、私自身の過去の検索ワード、閲覧履歴などから推測される私自身に最適化された内容です。ニュースアプリも私の興味の範疇である「教育」「深セン」「プログラミング」などの自身が設定したキーワードを元にフィルタリングされたニュースだけを読むことができます。
情報が溢れる時代において情報の選択、情報リテラシーは必須ですが、あまりに過度な情報の絞り込みは、興味のある世界により深く入り込む良さがある反面、興味のない世界と隔絶する可能性も生み出します。
2019年に際立った自国第一主義、反グローバリズムによる世界の分断は、単に国家のリーダーや政治家たちだけの責任ではなく、一般市民の思想の偏りも原因なのではないかと思っています。自分の興味のある情報、好きな情報だけに触れていては、他人を、異文化を理解し、許容する力は失われていくのではないかと思っています。
そんな思いにも駆られ、意図された情報の中に浸かりきった生活から脱し、「偶然性」を意図的に得るべく、大晦日の朝に思い立って長年行けずにいた広東省東部(深セン市から東に300km)のとある村へ一泊二日のショートトリップに飛び出しました。
私の目的(未知との遭遇)に良い具合に、その村に関する情報は日本語でネット検索しても全く出てきません(中国語でわずかにヒットしました)。私がたまたま高速鉄道の車窓から見かけて気になっていた古民家がある村です。
私はその村に辿り着けるかどうかさえも不安だったので、それらの古民家を間近に見ることができたら大満足だったのですが、思いがけない2つの体験をしました。1つは村挙げての葬儀(出棺の行列)に出くわしたことです。
その村の出棺では村人全員(400人くらい)が参加していると思われるほどの行列で、ド派手に大砲を打ち鳴らし、マーチングバンドも加わって盛大に送り出しているのです。人が生命を全うし、その最期の(新たな?)旅立ちを村人が祝福しているような光景は、私の死生観に深く何かを刻まれる感覚がありました。
もう1つは、ドローンを飛ばして村を空撮していた私(明らかに村人と服装が違う)に、村の子供達が群がってきて、ちょうど昼食時だったため、子供達やおばあさんに誘われる形で民家に招き入れられ、食事や潮汕地区に伝わる伝統文化である工夫茶(濃くて苦い烏龍茶)を振舞っていただいたことです。
この素朴な村人との交流の中で感じたのは、この3年間で劇的な発展を遂げた深セン市での生活に比べると、この村での生活は10年20年と大きな変化がないのではないかということです。
私自身は急激に変化する深センで暮らしているので、あたかも世界中が大きな変化を遂げているかと錯覚していましたが、何も変わらず平和に幸せに暮らしている人々が割と近くにいて、それにも気づかず或いはは無視して自分たちの経済第一主義的な社会に巻き込んでしまっているのだと思いました。
私たちの身近なところにも小さな分断が起こっており、それが少しずつ積もってきているのかもしれません。それが世界の大きな分断のきっかけにならないよう自分自身ができることが、「未知との遭遇」だと思っています。
旅行に限らず、人との出会いと対話を大切にして2020年という節目の年を豊かな年にしていきたいと思います。